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さらば、コスティキャン! でついたコメントで気になった点がひとつ。わかりやすく。
ゲームは物語ではない、インタラクティヴが云々で、僕は物語に関して認識を一致させる必要を感じた。
物語とは、基本的に伝達であり、コミュニケーションである。
ある物語を書くかどうかは、作家の選択であり、ある作家が書いたある箇所で、選択して記述した箇所に対して、重要だと解釈した箇所に付箋を貼るのは読者である。読者は選択権を持っていて、物語を読むか読まないかについても選択権がある。読まなければ、物語は止まる。
僕の場合、子供の頃、母親や父親の読み聞かせの童話(チャイクロ?)があり、きわめてゲーム的に物語られたものがある。紙芝居なども多く、芸達者な母親の読み聞かせっぷりは、幼馴染たちにも印象を残していて、母親の消息を気にしていると伝え聞く。
とくに紙芝居は差し替えもされていて、リクエストで話の筋が変わった。
まず、物語はインタラクティヴであることと矛盾しない(読まない・付箋を貼る)し、ゲ-ムとも矛盾しない。
その次に物語の芸術性を上げる。
ある女性書画家を看病したとき、芸術とは鍛錬・熟練を要する遊びとは無縁の「美」の創造と観照の関係なのだが、明らかに書画家は、遊びを入れてくださった。
「これは、お礼に。お金に困ったときに売りなさい。見る人が見れば最低でも十万円くらいにはなるから。」と、言って、そこに書いた文字は僕のゲームデザインノートの魔法呪文リストの呪文名だった。
これは遊びでしょう。
芸術は遊びではないが、遊びを包含することができる。
当然物語にも遊びは入り込むことができる。星新一先生のショートショートのイニシャル主人公など、上げるまでもない。
チェスをチェスたらしめているのは、「この駒でここの駒を取る」などの対話であり、「スティールメイトをねらってきた」などの解釈でしょう。
棋譜が物語とするならば、物語(棋譜)は全てチェスと無関係なのか? そんなことはない。貴重な棋譜は世界中で出版され戦法の研究解説書が、アラビア語版さえも出版されている。研究には途中まで棋譜に従い、そこから始める手法がとられる。TRPGだとリプレイをお手本にしたハンドアウトの当たりか。
遊びとは仕切られた規則形式の遊隙に遊ぶことであり、いくらでもその事物、自然事物の小枝もその物理的特性さえ規則形式の遊隙を見出せる。遊びとゲームの違いは以前書いた。
以上、基本的な用語概念で混乱されるので、僕の用いる意味で、用例、記述関係を上げてみました。
コスティキャンは、トートロジー(あの人間は人間だ)を知っているはずで、あれは遊びコラムだと思います。もし、伝達の工夫をするならば、トートロジーは避けます。誤読・曲解・齟齬の固まりになっている。
良いゲーム、悪いゲームがあるならあれは、悪いコラムです。単なる読み物的な作家精神の発揮されたジョークなので議論の土台にすえてはいけない。