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子供向けに書かれている本です。図書館の児童書とはちょっと離れたところに、マンガのコーナーの横にありました。
2000年6月25日発行ということで、情報は古いです。ゲーム業界の目覚しい進歩から、ちょっと取り残された感があります。
驚いたのは、やはり、当時でも哲学系の人がいるということですね。
ソニー・ミュージックエンターテインメント・ディレクターの浅野耕一郎さんは、実存主義や文化記号学、サルトル、メルロ・ポンティ、竹内哲郎さんなどを研究していたそうです。
まあ、哲学は、高校生は倫理の授業の延長だと思ってしまいますが、基本的には、高校の授業で言うと、数学や外国語の授業と思ったほうがいいです。
僕が高校の時、推薦でどこの学科でも選べた際に、担任か現国の先生が、哲学科を選ぶといいとすすめてくれました。
西村翠著
好き、を仕事にするために。ゲームクリエータになりたいと考えているあなた、本当に仕事の中身、わかっていますか。
「BOOKデータベース」より
[目次]
「BOOKデータベース」より
伊藤大雄, 宇野裕之編著
現代離散数学を楽しく解説。パズルから最先端理論まで、第一線の学者達が離散数学の魅力を伝える。
「BOOKデータベース」より
[目次]
「BOOKデータベース」より
http://western.blog.shinobi.jp/Entry/246/で紹介したピックの定理がオイラーの公式と同じ事を証明しているということが、ちらりと書かれています。
ゲームを作りたい!という人は、いきなりプログラミング言語を勉強したり、数学を勉強したりするのではなくていい。
まず「根本的に、ゲームを作って世の中に広めたい」のでしょう。
他の人にバカにされたり、他の人を馬鹿にしたりというのは単に時間を浪費して、モチベーションを下げるだけです。
個人的に遊ぶために作られたゲームなんて海千山千の数があるし、その中には優秀なインスピレーションが含まれているものはたくさんある。「同人でゲームを発表する」だけでもすごいことです。
「ゲーミング・シミュレーション作法」という本には、ゲームの作り方が書いてあります。作り方とは言っても、根本的なことが書いてあります。数学やプログラミング言語のハウツー本ではなく、処理アルゴリズムの本でもありません。
ゲームの作り方を知りたかったらご一読してみてください。僕も共感したことですし、別に僕自身のノウハウもあります。
でも、基本的にゲームの作り方として、僕には常識だと思っていたことが、わかっていない方が多い。
例えば、作ったのに売れないとか、面白がってもらえないとか、嘆く人は、そもそもそのためのゲームを作っていないのです。
自分が楽しむために作ったものは、自分の楽しみを満たすだけです。それを売ったり、面白がってもらおうというのは、そのためのゲームではないから、徒労です。
自分で作る楽しみを味わうために作ったゲームは、作る楽しみ以外のものは得られません。
それなのに、「(ゲームを作ったから遊ぼうよと連呼して、ゲームだから誰でも興味を持ってくれる、ゲームだから誰でも楽しんでくれると)、勘違いしている人は、実はプレイは誰でも作ることができることと、ゲームを作ることは誰でもというわけではないこと」の違いが、わかっていないのです。
一体誰のような人のために、何を、なぜ、ゲームにするのか。そこをさっぱり考えていないと、単なる徒労に終わります。
この本にはこのような大切なことが書かれています。
さらに。
インスピレーションは計画通りには現れない。
ゲーム設計だけで生活できている人はいない。
ゲーム設計にかかる時間は過小評価される。
一人で取り組まずに、二人以上で取り組む。人との相互作用は有効。
ゲームのテーマに沿った人たちにアプローチしろ。
出版社の大小、ゲーム専門会社へのアプローチ。
プレゼンテーションにゲームを設計する。
車輪を再発明する必要がないのと同じように、借りなさい。借り過ぎたら明記しなさい。色々なゲームを知っていることは役に立つ。
ゲーム設計のプロセスは、五段階。最終段階で第三者が遊べるようにする。
テストプレイは最低10回。バグは必ず発生し、前の段階に行きつ戻りつする。ここで知的忍耐力が必要。
ゲームで扱うべき要素を絞る。
コンセプト設計が最終段階のゲームマニュアルに使える。
大切なのはモチベーションとインスピレーション。知的能力は二の次。
単なるシート一枚でも好奇心がわくように、整えろ。
などなど。
ロールプレイングゲームについても書かれています。
Cathy S. Greenblat著 ; 新井潔, 兼田敏之訳
[目次]
「BOOKデータベース」より
PS.削除しました。
この記事はTRPGばかりではなく、ゲームデザイン全般について書いています。どうも、書いてあることが誤読されるので、困ります。
常識として、TRPGだけがゲームではないこと、ゲームは娯楽ばかりではないくらいのことは、理解してください。
興味をもつ原理は、上図の「知覚の性質」で表されます。これは、ネズミの実験でわかっていることです。
人間の実験では感覚遮断実験があります。ネズミと同じにように眠ることで、情報量が少ないと、同じ反応を示すのが一つ。
買う目的の商品が、あふれるほどの多種類の商品に囲まれるところでは、何々系のものとテーマを決めて検討します。選択するということは他の多くのものを捨てることと同義です。
興味が頂点の時に結果が得られなければ、不満が起きます。
興味と関係するコミュニケーションでは、この知覚の性質から離れられません。これは、ゲームに限りません。もちろん、TRPGにも限りません。
もし、TRPGが「たいくつ・眠る」探索から出発するならば、選択に導くのは興味の頂点です。
多様多種の情報が得られている状況「心を閉ざす・パニック」選択から出発するならば、探索に導くのは興味の頂点です。
ここの中に、「TRPGとして」という条件を説明するのは簡単で、「ゲームとして」という条件を入れても、説明するのは簡単でしょう。
追記。
選択すると、情報が減るはずで、増えてしまうと、興味は遠のく。
探索すると、情報は増えるはずで、減ってしまうと、興味は遠のく。
興味を持ち続けてもらうには、探索と選択のシーソーで、興味をひきつづけること。
もしかしたら、このことが、「遊戯のパラドックス」と「偽りのあるコミュニケーション」との混同の一つかもしれません。
「遊戯」には必要な「興味をひく」ことですが、「偽りのあるコミュニケーション」に「興味をひく」必要はないのです。もし、「興味をひく」ことで、偽りが明らかになれば、その悪意を読み取るだけだと思います。悪意が強烈な「無関心」ならば、対する感情は「コンフリクト」ではないかと想像します。
コミュニケーションの社会学長谷正人, 奥村隆編 「互いにわかりあうのがよいコミュニケーションである」という思いに囚われている現代社会。本書はその常識に疑問を投げかけ、コミュニケーションの文化的豊かさを、リアルな人間模様を描く事例から描き出し、新しい社会学を提示します。 「BOOKデータベース」より [目次]
「BOOKデータベース」より |
「互いにわかりあうのがよいコミュニケーションである」という思いに囚われている現代社会。本書はその常識に疑問を投げかけ、コミュニケーションの文化的豊かさを、リアルな人間模様を描く事例から描き出し、新しい社会学を提示します。
「記号論」は、人間のコミュニケーションの間接性、虚構性、演技性を強調するところに魅力がある。(ex:フェルマン[1980=1991])
つまり、私たちは無意識のうちに、伝統的な生活のなかで交わしてきた具体的な「交際」や「つきあい」とは違ったニュアンスをもつ言葉として、「コミュニケーション」を使っているらしいのだ。 土井(隆義)は著書『友だち地獄』でこう述べる。いまの若者たちは、他者との対立を回避することを最優先にするやさしい関係を結んでいる。相手を傷つけない・自分が傷つけられないように、繊細に互いに配慮して対立の要素を徹底的に排除しようとする。この関係を乱す者は「空気の読めない者」として忌避され、いじめの対象となる。 こうした関係のなか、「純粋な自分」でありたい、それを承認しあう「純粋な関係」を築きたいという願いが高まり、現状の配慮しあう関係は「偽りの関係」に見えて絶望感を深めてしまう。そして、純粋な関係が可能な場として、「本音」をいいあえるネット上の関係が求められ、「内発的な衝動や直感」(=純粋な自分)が投げ出される。(土井 2008:9-10,46-49)。 この関係を支えるものに「対等性の原則」がある。価値観や意見の押しつけへの強い嫌悪感を持ち、上下関係は少しの時間も容認できず、「上から目線」にめっちゃムカつく。対等を守らなければ怒り出すこわい人が増え、互いを腫れものや爆発物として扱わなくてはならない。(森真一 2008:50-64,117) |
基本的に生まれた時点で人間が対等であるわけではない。素直に互いの差異の承認をするなら、「純粋な自分」でありたい、それを承認しあう「純粋な関係」を築きたいという願いなど、需要がない。
対等性を固定することでは、非対称のコミュニケーションである教育や議論ができない。
社会を作るのに、意識をもった人がモノを生産するという「成果」を志向する行為(「道具的行為」)は不可欠だ。だがそれは一人ではできず、「成果」志向で他人とかかわる「戦略的行為」も重要となるだろう。しかしこれでも社会はできない。「道具的行為」「戦略的行為」のような「成果」志向とは違う、相手を「わかる」=「了解」を志向する行為があってはじめて社会は成立するのではないか。この「了解」志向の行為を「コミュニケーション的行為」と呼ぼう。(ユルゲン・ハーバーマス) |
合意に至ったとして、そこから先へのコミュニケーションは不十分な説明だと思う。
「討議」のルール。
GMに委任するよりもTRPGのローカルなコミュニティでは、
なにか規範を決めるとして、それに影響を受けるすべての当事者が、合理的に討議して合意できるものだけを妥当とすること。
語り行為をする能力をもつすべての人が討議への参加を許され、誰もがどんな主張をも話したり問題視したりでき、こうした権利を行使することが内的・外的な強制により妨げられないこと。
これは大切だと思う。
「社会」が実在するという立場があるが、社会が個こ人の集まりにすぎないとすればそれは実在せず、他方で「個人」も究極の単位ではなく「無数の社会的な糸の交差点」にすぎない。
結びつくか/離れるかではなく、結合するから分離し/分離するから結合する。私たちはさまざまな境界にこの両義性を発見する。相互作用もこの両義性に満ちているのではないだろうか。
印象操作を行うさい、「表局域(front-region)」と「裏局域(back-region)」が生まれる。
Iとmeから自我はなる。Iは「自由」や「自発性」の感覚を与えるものだ。meは、経験の蓄積による因習的で習慣的な個人。Iにおいて衝動的行動は統御されず、meはこれにたいする検閲官であって、Iの反応は社会状態の堕落かもしれないし、より高次な統合かもしれない。自我はこのIとmeの会話として存在する。 |
他者がいるから、「わたし」が成り立ち、「わたし」でいられる。
「回避的儀式」「呈示的儀式」「演技」によって、「無数の社会的な糸の交差点」にたつことができる。
非対称な関係を用いて、病理を生じることがあり、これを回復させる手法がある。対称な関係を持ちいては不可能で病理の回復ができない。
TRPGはコミュニケーションとして、擬似的に対称な関係に相当するだろう。だから、病理の回復には用いることはできないと考えたほうが良い。病理に苦しむ人達へのきばらしや娯楽として、参加者が「対称なコミュニケーション」をとろうと意識されなければ、病理に苦しむ人の回復を逆に悪化させるかもしれない。
遊戯のパラドックスは「遊びの現象学」で否定されている。遊戯は我々のコミュニケーションの一つであり、病的な二重性はない。もし、そのような二重性があるコミュニケーションがあるとすれば、「遊戯」とは独立したもので「遊戯」自体とは関係がない。
「遊戯であるということが偽りないコミュニケーション」は存在する。おそらく、「偽りのあるコミュニケーション」と混同している。
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人は他者をすべて理解することはできない。
程度の差はあれかなりの誤解がノーマルなものとして含まれている。」すべての誤解を解こうとするとコミュニケーションはとても難しくなる。
次の行為で修正されれば十分であり、「わたしたちはこうした誤解と折り合いをつけることでいい。
これはTRPGにも当てはまる。
対人関係の円滑化だけに特化された社会的強迫観念は、確かに病的だ。
嫌いなことを嫌いだとして、好きなものを好きだとすること、または、面白いものはどこが面白いのか、面白くないものはどこが面白くないのかなどを主張し合い、誤解を解きながら折り合いをつけるのが、一番素直で自然だ。
円滑化ばかり考えていたのでは、単なる趣味の自由さえも奪うことになる。理解できないと表明していたとしても、「影響を受ける当事者」ではないかぎり、対話する必要はないのだと思う。
だいたい、あらゆる迷惑な者、トラブルを起こした者にまで、寛容で、ぐずぐず悩む人と一緒にいるより、ことが終えてから堂々笑いのネタにしてバカにする人と、一緒にいたほうが気分がすっきりする。ヤクザのように引っ掛けて脅し取ったり、ガキのやるようにイジメて自殺に追い込んだりするわけではないのですから、あらゆる迷惑な者、トラブルを起こした者の責任として、追い出したり相手にしなければいい。
みんなの事全部仲良くなんて、単純に欲張りで臆病なだけだろう。潔くないしカッコ悪い。
勇気があって、慎重だということは、臆病なこととは全く違う。
西部劇は特にそのことを教えてくれる。たくさん見ていても何も学んでいない人もいるけれど。
「遊びの現象学」からすると、TRPGのコミュニケーションは、遊戯のうちのTRPGを遊ぶコミュニケーションとして、独立している。
TRPGは、コミュニケーションのゲームだ! という論において、ユーザーがコミュニケーションが下手とされるかはなぜか。
それはコミュニケーションとして独立しているからで、かえってディスコミュニケーションに敏感になって、コミュニケーション能力が低いとされるだけかもしれない。
逆に、ディスコミュニケーションに考えが及ばない人は、TRPGに向かないかもしれない。
新品です。
ほか、ウィルソン氏の本は、どうやって買えばいいのかと教えてくださいました。欲しい方がいらしたら連絡ください。
http://www.wilsonbooks.com/のAmerican Arms Collectors Percussion Colts and Their Rivals–The Al Cali Collectionに興味が有ります。
Vショウ参加者の皆さんお疲れ様でした!
A | ¬A | ||||
B | ¬B | B | |||
C | A∩B∩C | A∩¬B∩C | ¬A∩¬B∩C | ¬A∩B∩C | C |
¬C | A∩B∩¬C | A∩¬B∩¬C | ¬A∩¬B∩¬C | ¬A∩B∩¬C | ¬C |
B | ¬B | B | |||
A | ¬A |
A | 非A | ||||
B | 非B | B | |||
C | AかつBかつC | Aかつ非BかつC | 非Aかつ非BかつC | 非AかつBかつC | C |
非C | AかつBかつ非C | Aかつ非Bかつ非C | 非Aかつ非Bかつ非C | 非AかつBかつ非C | 非C |
B | 非B | B | |||
A | 非A |
グーがでる | グーが出ない | ||||
パーがでる | パーが出ない | パーがでる | |||
チョキがでる | あいこ | グーの勝ち | 全員チョキ | チョキの勝ち | |
チョキが出ない | パーの勝ち | 全員グー | ありえない | 全員パー | グーかパーだけ |
グーかチョキだけ | |||||
グーがでる | グーが出ない |
条件が4つ以上の場合も同様にして行あるいは列を増やすことで書くことができます。
気を付けないといけないのは、
[SYS]意図しない合成の典型例
です。
●一目でわからせる文書設計のコツ
[コツ1]
漢字使用率を三〇%程度にする。 ・・・一般的には、漢字が二五%から四五%、かなが四五%から六五%、残りがカナや句読点である。 |
[コツ2]
カタカナは、漢字とは逆にその字形の簡単さゆえに「図」になりやすいので、慎重に使う。 |
[コツ3]
ひらがなについても、多すぎるときは、読点を多めにしたり、カギカッコや下線などの飾りを使うようにする。 |
[コツ4]
見た目のまとまりと意味のまとまりとが一致するように表記する。 |
[コツ5]
読んだときに意味の「大きな」まとまりが「すんなりと(瞬間的に)」頭に入るところあたりに打つ。・・・文節数にして五個くらいが一応の目安。 |
[コツ6]
漢字の使用率を三〇%程度にすることである。 ・・・助詞、副詞、接続詞などの付属的な働きをする語、送りがななどは、かなにすること。「事」「為」はかなにすること。 |
[コツ7]
一文に込める命題の数を減らすということ。 ・・・「文を短く」。「一文一義」を原則にする。接続詞や指示代名詞、連接性に気を使うことになるため、二命題、三命題程度。 |
[コツ8]
レイアウトを工夫して視覚に訴える文書にする。 ・文字を大きくする。 ・一行の文字数を少なくする。 ・一頁の行数を少なくする。 ・見出しを増やして、本文との対比を際立たせる。 ・図表や図解などを増やす。 |
[コツ9]
メンタルモデル駆動の読みを支援する。 ・見出しも、既有の知識でわかるようなものにする。 ・理解の鍵になるところでは、図解を併用する。 ・大事な用語は目立つようにする。 |