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2011.08.27「メモ」
この本においてのゲームである部分、ゲームではない部分の分類において、語られている「ゲーム」の齟齬が僕の中では明らかになりました。
僕はTRPGセッション全体がゲームもしくは遊びであるとして認識していました。
そうではなく、ゲームへの駆動部分で走っている「間」のようなものが、「ゲーム」を「葛藤・結果に対する責任・アカウンタビリティ」によって成立させる仕掛けだとしていることです。
「間」=「遊び(遊隙)」として、「ゲーム」成立の仕掛けだとすれば、GMの面からは「葛藤・結果に対する責任・アカウンタビリティ」を与えるパートを用意すればいいだけかもしれません。
しかし、もしセッション全体を通じて俯瞰したとき、PLのPCと、TRPGの僥倖を享受する主体であるPLとGMは、どこに位置するのでしょうか。PLは面白そうな選択肢に飛びついていいのでしょうか。逆にGMはPCを無視してゲームを仕掛けていいのでしょうか。
やはりここで、PCの再演性が全体に「遊動」していて、PLはPCではないことを前提に、「遊戯であるということが偽りないコミュニケーション」が成立していることは、前提に据え置かれなくてはならないのだと思います。
「ゲーム」を与え合う主体的な関わりでもって、GMも、PLも互いに作用し合い、どこが「ゲーム」でどこが「間」であるかという境界は、「葛藤・結果に対する責任・アカウンタビリティ」という概念では、区画化できないのです。
さらに、意志決定の主体であることになっているPCが成立するためには、「間(遊隙)」、駆動部分の「間」において、PCが表出するところなのですから、PLはそこで、再演性を発揮しなくてはならない。僕は再演性と呼びますが、「心情描写」「感情移入」「演技」「キャラづくり」「キャラ立ち」と、言われるものです。
再演性自体が、PLの創発的な拡張され得る「葛藤・結果に対する責任・アカウンタビリティ」によって成り立ちます。
これは、「非対称なコミュニケーション」「ダブル・コンティンジェンシー」や「ディスコミュニケーション」、「回避的儀式」「呈示的儀式」「演技」などを駆使して、「無数の社会的な糸の交差点」に立たせることでしょう。
この作業はTRPGの重大な点で、この本で取り扱う狭義の「ゲーム」だけでは語り尽くせないでしょう。ですから、どうしても、「ストーリー」とか「ドラマツルギー」といった要素に言及しなくてはならないのです。
この本にあるとおり、一般的にTRPGは単純な、「制圧」を主軸としたマンネリズムに固執しています。しかし、そこから派生したものは、再演性です。ごく単純なストーリー構造を踏襲したために、魅力的で豊かな鉱脈にぶちあたってしまったのです。
「ストーリー」とその「シークエンス」のゲームにおいて、僕がアプローチする地平を改めて痛感させられた気がしました。
と、同時に背反するのですが、ゲーム性を追求してデザインするべきという悪戦苦闘をしなくてもいい。ゲーム性はユーザーが作り出せるようにするだけでいいのかもしれないと、重い肩の荷を下ろせた気もして、勇気づけられました。