個人的メモです。
フォン・ノイマンが
「チェスはゲームじゃありませんよ。チェスというのは、明確に定義された計算の一形式なんです。実際に答えを出すことはできないかもしれないが、理論的には正しい「手」が存在するはずです。」と言ったという。
つまり、「チェスはゲームではない、答えの分からないパズルを二人で解いているのだ」ということ。
このようにチェスを協力ゲームとして捉え直すことが出来る。
ナッシュは協力ゲームについて、協力行動の分析は, 適当な非協力ゲームのモデルによるべきであるという。これをナッシュプログラムと呼ぶ。
こうした視点からは、いわゆる勝敗を指すゲーム性は消滅する。
パズルを解く競争(アゴン)ではなく協力や名勝負の棋譜の模倣(ミミクリ)に還元されてしまう。
チェスの棋譜は展開を記録したストーリー。
問題解決がTRPGの本質ならば、ごく簡単なマップとNPCでプレイできるはず。
そういう立場のTRPGは単体では遊べないと言われる。
これは本質ではないものを本質に据えているから。
GMはPCの行く末に興味を持ってもらうことが重要。
PCが危険なトラブルを避けて関わらないことが一方的に悪いわけではない。
単なるドタバタ劇あるいは日常であっても興味を惹けば成立する。
問題解決ならば解決できるように配置。 解決に及ばないシナリオを用意しない。
観客がいる演劇ではないので、徒労に終わることを強制しない。
吟遊詩人マスターが嫌われるのはPCの有効性がないため。
同じくPCに有効性がない無力からの悲劇、無意味な選択の強制はできない。
観客相手ではないので強制しにくい。
TRPGの場合、リプレイが棋譜に似ているだろう。
棋譜に妙手や疑問手があるようにリプレイは心を動かす。
答えの分からないパズルを解くように解法の望ましいシークエンスを全体として得る。
いま、ここの僕とあなたのプレイするTRPGである理由は何だろうか。
そして、我々のPCが我々の解釈に委ねられている理由はなんであろうか。
ロールプレイはそのPCの立場になって憶測しなお(Second-guessing 新井潔による)されたもの。
フォン・ノイマンはさらにこう言う。
「それに対して本当のゲームはというと、全然違います。現実の生活は、はったりやちょっとしたごまかしの駆け引きやこちらの動きを相手はどう読んでいるのだろうかと考えることからなっています。そして、それこそが私の理論で言うゲームなのです」
つまり本当のゲームは現実の生活であって、ゲームは単純化されたモデルだと言うこと。
そして「相手はどう読んでいるのだろうかと考える」がゲームだという。
ということはロールプレイのSecond-guessingはそれ自体がゲームの要素を持っている。
ここでTRPGでの問題解決がゲームではないことは明らかでしょう。
シナリオ上に用意された障害はロールプレイという枠組みを豊かにするものに過ぎない。
問題解決はときにただ一つの正解を要求する解をPLに求める。
これはPCのロールプレイという枠組みを外れてしまうことが多々ある。
別のパズルを解く課題を投げ込むもの。
TRPGではパズルの解に達するためにはロールプレイ上の解を求めることが大事。
ロールプレイ上の解とは物語的な望ましいシークエンスだ。
そうすることによってGMとPLのゲームが成立する。
GMはそういう意味で圧倒的制圧をPCに及ぼせない。
PLのPCとしてのロールプレイを楽しむことが出来る。
これを自覚したGMへの信頼がPLの楽しみの根拠となる。
こうしてロールプレイというワン・クッションが笑顔を介して調和する。
ゆえに遊戯として力の拮抗した遊動関係、シーソー遊びを形作っている。
つまり意志決定や問題解決ではなく、それを包含した、関係とその変化を解釈すること。
この現実の営みと同じことを単純なモデルとしたものがRPGのゲーム性です。
世界設定がないと遊べないのはPLがPCの立場を憶測し直すことが出来ないからです。
少なくとも僕はそう考えます。