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GameDesign 西部劇TRPG開発日誌

[TRPG]ゲーム性とは分かりやすさではありません。

 [TRPG]問題発見と解決。TRPGのゲーム性を勘違いしている方へ。



  目標を何々退治という、いわばシングルフォーカス、ルールの記述ばかりを追って無双をしようというシングルレイヤー、問題定義はGM任せで解決方法は選択肢や遊び方を明確にしないといけないというハイコントラスト。失敗しにくいTRPGは、単にそういうセッティングでいいでしょう。

 コミュニケーションをしないで済むから時間もかからないし、ルールを読みこめば活躍できます。選択肢が明らかならばジレンマもほとんど問題にしなくていいのです。
 もちろん、必要ではないとして描写もほとんどしなくていいし、必要ではないとして想像力を発揮する余地もなくなります。


 ゲーム理論や意志決定といった衣をまとわなくても、コミュニケーション学から自閉症スペクトラムが低く「わかりやすさ」として当たり前と、裏打ちされます。馬場氏の曲解翻訳は大変でしたね。

 馬場理論が素晴らしかった。文章が素晴らしい。わかりやすい。とか。だから内容を問うな、と、目をグルグルさせて、根拠が崩れるのを恐れるのは、ずいぶん不安なのでしょう。

 さんざん、この分野で問題として取り上げているものを、発見した! 提案した! と、言い張っているにすぎないのが実情です。
 そんなに恐れなくても、コミュニケーション学からきちんと説明できるのは揺るがないので安心してください。

 ただし、この論法は、ゲームがわかりやすいから、ゲームが面白いという風に、すり替えているのです。
 ゲームの面白さは分かりやすさもありますが、それは一要素であって、必須ではありません。
 ゆえに、はっきり言って、ゲーム性とは関わりがありません。

 目標がはっきりしていて、ルール通りに軍拡したキャラクターを作って役割分担し、ルール通りに解釈して思考停止して、プレイでの障害と問題解決の選択肢はくっきりはっきりしている。これは、わかりやすいだけで、ゲームの楽しさとは関係ないです。

 PCがどういうナリをしていて、舞台世界での立ち位置はどこにあるのか、育ちはいいのか悪いのか、どういう経歴を積んできたのか、家族など人間関係はどうなのか。

 PCをトークンとか、リソースとして見るのではなく、PLの個性のなかにある要点、一種独自的な演技ができるタイプとして、また表現対象として顕す。
 そのほうが個人的に好きです。

 人と人とで楽しむものですから、人を楽しみ、自分のことも楽しんでもらう。
 いつも落ち着いた人が直情熱血漢をやったり、優しげな人がクールなキャラをやったり。

 こういうのは、普段コミュニケーションしていないと全然理解できなくて、わかりにくい遊び方なんですよね。

 普段コミュニケーションをとっている人だからこそ、データ偏重キャラは、不興を買ってしまうという事もあります。
 そういう不興を買ってしまうことは一種の賞賛の示唆です。

 わかりにくい問題にぶつかって、手詰まりを覆したりする。そういうゲームとなるのは僥倖です。
 僕はそういうプレイが好きです。



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