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『レヴェナント:蘇えりし者』観てきました。
文学臭があって、写真的な映像美があって、生々しい自然生態系と、そこから遊離した人間個人の単独性や情念の普遍性。
自然は死に対して親しく、生に対してはむごい。
マウンテンマン(山男)やトラッパー(罠猟師)たちは、ロバート・レッドフォード『大いなる勇者』を想起させる。
フィッツジェラルドがシバれていそうな固い地面をあくせく掘って、主人公グラスが埋葬されかかってからの、復讐譚。その意味で、ラザロ(ラザリ)のような蘇えりし者という審判を待つポジションにいる。改題するところはそんな感じですね。
雪国育ちとしては、冬眠しないで子育て真っ盛りのグリズリー(羆)って、マタギの世界かなと違和感がありました。季語として失敗しています。
繁殖サイクルとしてはグリズリーもヒグマも変わらないはず。
雪の降り始めの山の水浸しから真冬だとしたら、グリズリーがずいぶんと餌不足で山が不作なのか、それにしても時期が遅い感じがしました。
あんな山の水浸しは、雪国の早春で、サンショウウオやカエルのオタマジャクシが孵る時期。初冬だと、凍てついてしまった地面が、バリバリと霜柱になってめくれる。
親子連れのグリズリーを出した意図は、主人公グラスと息子ホークとの対比の関係があったかと。このあたりは脚本上の細工だったと思います。
フィッツジェラルドがアリカラ族の襲撃に冷酷に判断を下し、生きるためにホークを殺しブリジャーを欺して瀕死のグラスを見捨てさせたのは、道案内のグラスがたぶん高い報酬を得て応じているはずなので、苛立ちもあったと察する。
フィッツジェラルドが完全な悪玉だったかというと、そうではないと思う。
というのは、今日は出発前に『モンテーニュ随想録』を図書館で借り、一服がてら立ち寄った喫茶店で、チラリとこんな一節と出会ったからなのでした。
第二十章 我々は何一つ純粋に味わうことがない より
我々がもっている快楽や善にしても、多少なりとも悪と不快とを含まないものはないのである。
メトロドロスは「悲哀の中に幾ぶん快楽がまじっている」といった。彼はほかの意味でいったのかも知れないが、わたしは「憂鬱な気分に耽ることには多少の意図と同意と満足があるのだ」という意味にとる。
グラスの復讐心には幾ばくか幸福、また希望があり、同様にフィッツジェラルドの裏切りには酌量の余地が幾ばくかあった。
自然の猛威に立ち向かったグラスはヨブ記のように強烈な試練を観客に対して示しているから、仇討ち、復讐心に、僕らは敬意を払うことを求められる。
そう、旧約聖書ヨブ記を読んだときのあの倫理的判断、僕たちの価値観が試されるときの。
あの非ユダヤ教徒、非キリスト教徒、非イスラム教徒には理解しがたい疎外感。
バイブルを下敷きに届いてくる、あの超自然的な穢れ。
個人の核心部分に触れ合わないでいようとする僕らの価値観が共有する「荒れ」。
鎮めよう、静めようと、僕のこころが無意識に働く。いのれ。
日本人としてはインディアンの価値観の方が理解が及ぶ気がします。
自然の試練には神は介在していないので、善悪は定まらない。
人と人とのあいだ、人間としては果たして? そこに僕ら日本人の解釈が入り込む隙間があるように思いました。
TRPGメモ グリズリとの戦い、これを数値表現にとどまらない戦いに還元せずに、再演するには。 |
原作です。