[PR]
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
事実上の源流には、コミュニケーションとは別個の枠組みがあって、意志決定論や確率などを集合とする「形式性を持ったルール群」があった。テーブルゲームやシミュレーションゲームにソリティアがあることから言えることはコミュニケーションは不要な場合が許されている。それどころかソリティアには、コミュニケーション自体が邪魔だともいえる。
ところが、TRPGは、役割演技という「演じる」部分において、ソリティアがまず成立しない。一人で「演じる」ことはできない。このため、TRPGが、コミュニケーションの欠落を起こすと成立しない。TRPGは、まず、構造的にはコミュニケーションの枠の中で成立するように、デザインされることが前提となった。そして、「演じる」ことは、プロセスを生み副次的に「物語」の生産を行うこととなった。
そこで問題になる「物語」「演技」について、これがコミュニケーションの不成立を引き起こす事態が生まれ、馬場さんがゲーム性への回帰を、過剰にシニカルなノスタルジーでコラムが展開され、一時、アマチュア層に再考を促した。個人的にまとめるとミスリードしていなければ、こんな感じだと思います。
そして、コラムどおりの理屈の進め方では、結局、TRPG自体からの放棄撤退しかなく、やはり、TRPGの内部の構造を「コミュニケーションの成立」>(「ゲームの成立」&「演技の成立」(物語))と、受けとらざるを得ない。TRPGはここを崩すと成立しないと思います。この前提だけでもTRPGの面白さと言えるかもしれない。
ゲーム理論上では、正直一番考えたくない形式をとる悪夢のゲーム。ゲーム性は演技の適切な解釈規定性として立ち現れる。おまけに、第三者からの観察解釈を嫌う。ゲームが生物ならカモノハシのような存在かなあ。
他のゲームとゲームの意味合いが異なる。協力型というよりは、協奏型か。非零和、多人数という呼び方も正確には当てはまらない気がする。
やはり、直観的には、音楽理論のようなものはできても、物理理論のようなものはできないような気がします。