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PLのキャラクター(PC)というものは、イマジネーションに偏ると、インスピレーションを不要とする「面白くなさ」の原因です。
暴論でも、仮定してみれば分かることがあります。
無敵キャラクターは何がやりたいのかはっきりしないと、作られたとします。それでも、何が面白いでしょうか。
われわれが遊びをして、面白いと感じるのは、何かの「成功」が喜ばしいフィードバックとして返ってくるからです。もし、いつも「成功」だったとして、それを喜ぶことができるでしょうか。
キャラクターのイマジネーションとは、PLの「やりたいこと」のバランス、GMのイマジネーションの産物の展開連鎖の「架空世界」へのアプローチ(介入)の傾向、スジというものです。
PCとは、PLが「やりたいこと」「かかわりたいこと」の、ひいては面白がりたいことと言えます。
スリルが失われれば、全てをキャラクターの力で乗り切ります。つまり、GMは壊れにくい作りやすい想定しやすいシナリオを作ることが出来ます。これは悪いことです。
なぜなら、遊びの面白さの価値が簡単に奪われてしまいます。
このあたりをTRPG論として肝に銘じていただきたい。
キャラクターメイキングのマンチキンや、PLのサイコロごまかしなどは、僕が批判の根底におくのは楽しめないからであって、楽しい時間を共同で作ることから外れることと同義です。
分からない方とは遠慮したいですね。
分かりやすく言うと、「ルナ・シルバースター・ストーリー」で、所持金がザックザックで、クライマックスにしか楽しみがなくなるような感じ。「風来のシレン」で、永続的に無敵なのがはじめの一度目から。
分かりにくいでしょうか。
GMの筋運びにそぐうようにしか進めない、いわゆる「ストーリーGM」が、嫌われるように、「ノンリスクPL」とでも言っていいでしょう。
アドリヴ演劇に、アドリヴ否定のくびきをかけては、リブレット演劇でしょう。
この論で言うところで含まないのは、ゲームに、チェスのエチュードのような、仕掛けを仕込むことですが、それは論の対象外としておきます。一般的な遊び方についてです。
システムデザイナーは、意外性を提案するものと思います。
シナリオデザイナーが、GMに「壊れにくい作りやすい想定しやすいシナリオを運営させる」よう強要して、ひいてはPLのPCに及ぶのではないでしょうか。
多くの場合、シナリオデザイナー=GMのパターンがほとんどだと思いますが、この局面が全てではありませんでした。
GMがオーダーメイドでシナリオを拵えてあっても、市販のシナリオの問題点として、ある局面で有用な無敵ぶり、活躍ぶりが、仰々しいまでに強制されていることは問題です。
PLが見せ場を作るのであって、PCが活躍するのであって、シナリオデザイナーが仕込みをハデにやらかすと温めるだけのレトルト食品になるんです。
書類袋に残っていたので載せてみました。(1990)
RPGシステムのデザイン上の法則
デザイナーの嘘
ニーチェいわく思想を語るものは嘘をつく。思想は理想である。
しかし、思想は単に希望なのであって、実現不能な大嘘であってはならない。そんな意味があるのだと思う。
このメモにはある程度の嘘が含まれている。
だが、まず誠実であることが大切である。大嘘を語る気はない。
これを読む者は常に気に留めて欲しい。
そこに独善が見えたならばそれを省いて読み進めるか、なぜ独善と感じるのかを考えてほしい。
やはり創作も芸術もまた嘘から生み出される。
それを忘れてはならないのだ。
ストーリー統一の機能
ごっこ遊びにおいては役割に対する明確な位置付けが存在せず、それが行われる理由も、またその終結も明らかではない。
RPGがストーリーの流れをある意味で統一する基準であるという、その機能があるために我々はそれを用いるのである。
これはRPGが現実に適応した複数の人間同士のコミュニケーションであることに由来する。
コミュニケーションに共通の話題の知識、共通のものへの関心、共通する感性が必要なのと同じである。
共通の言語であると考える必要はない。
言語はコミュニケーションに限って用いられるだけのものではないからである。
現実との比較の愚かさ
現実の唯一つの始まりは誕生で、終結は死であり、この結末以外に考えられるものはない。
現実は途中でやめることは普通できない。
RPGはゲームのストーリーからいつでも止めることで結末をつけられる。
演じられることがなくなればそのキャラクターのストーリーは終結する。
結末のヴァリエーションの豊富さは物語ならでは、である。
シナリオは結末を、現実とは違うから、物語のゲームだから、といって限定しないのが普通である。
現実は生きる人を楽しませてくれるために存在するのではない。
楽しめる現実であったかどうかはその人自身の願望への努力の結果である。
苦痛なしに本当の感動や満足は得られない。
RPGは疲れるストレス以外に苦痛がない。
だからRPGで得られる感動や満足なんてたかが知れている。
最近は仮想現実などという言葉が流行し、それに流された文脈でRPGの仮想現実と現実を比較しようという風潮がある。
RPGの仮想現実は会話体なので共時性もなく疑似感覚もなく、想像力が鍛えられはするけれども現実認識を誤らすなら映像メディアの方が現実と比較するに相応しいと思う。
人間の現実適応がコミュニケーションで成されるなら、かえってRPGは現実に適応する力を高めるものであると言えるだろう。
独善性が否定されるのだから当然の結論だと思う。
比較するならば映画や小説やTVドラマのほうが相応しい。
何の共通項のない現実よりも、物語であるというモノ同士を比較するのが筋ではないか。
この場合、一方通行ではない、双方向性の創作参加がRPGのストーリー展開の本質的特徴としてあげられるだけの話である。
現実を決定理論もどきで、さも正しいように見せる浅はかなあの有名なグループの喧伝する馬鹿な図式を私は理解する気にも許す気にもなれない。
選択の余地のない病気もしない運の良い人生なんて決定次第で幾らでも避けられるかのように見せているではないか。
浅はかとしか言いようのない幼稚な比喩だ。
自覚していると言って、どうして独り善がりに気付いてやめないのだろうか。
自由度と価値認識統一のパラドクス
ストーリーの流れを統一するに当たって重要なことは、まずそれがプレイを行うもの全員の『空想世界』での共通の価値の認識や情報が必要になってくる。
これがいわば世界設定やジャンル上の知識であったり、世界観であったりする。この論旨を進めるならば、ゲームシステム全体を相互に了解することもまた価値認識の統一なのである。
いわゆる自由度の高いゲームまたは自由度の低いゲームという多種多様なシステムにおける問題は、まずここから生じる。
価値体系という枠組みが固まることによって、RPG本来のもつ空想的な自由度が失われる。
空想的な自由度とは、一般には適応を目指す現実に外れた、意外性が基礎となるヒロイズム風味の『幻想』と呼ばれるものがほとんどといって良い。
質の悪いことに、『幻想』はそれをゲームというコミュニケーション上に現実のものとして扱い適応させるため、ルールシステムの肥大化を助長させやすく、しかも、ユーザーがその全てを把握し切れなくなってしまうという問題が起きやすい。
かといって空想的な自由度ひいては『幻想』を肯定し、重視するならば、肥大化はとくに進行する場合がある。
それを避ければ、枠組みが崩壊しプレイする者同士のコミュニケーション上の重大な認識のズレ、歪みが生じてしまう。
歪みを避けるには空想的な自由度を、現実的な常識というルールを働かせて存在するものとする、という想像力への余計な負担を強いる方法があるが、そのままでは歪みは決して取り除き切れない。
これをデザイナーの問題と片付けるのはやさしい。一致の把握しやすさと認識の統一は両立しないのだろうか。
ゲームマスター力量の限界
ゲームマスターの力量によって『自由度と価値認識統一のパラドクス問題』を克服するという方法は、確かにある程度の満足を満たすものである。
それならばそのマスターが、個人的な趣味でRPGシステムを、シナリオごとに毎回構築すれば良いだろう。
システムはその材料を提供することを意識すればいいのである。システムの役割拡散という逃げを肯定し、主張のないコピーの山をデザイナーが築くべきだという考えである。
しかし、ここで指摘したいのはマスターの力量問題ではなく、マスターには把握することは不可能な全員の問題である。
それはユーザー、特にプレイヤーが自分の「キャラクターの行為の連続における価値」についての認識ができないという問題の克服に背を向けてしまったままなのである。
これは、なぜかユーザーがRPGをしているのかわからないままである、と言い換えられる。
こんな重大な事はマスターの力量では解決できないから、RPGのシステムデザイナーが解決するべき問題であろう。
報酬を得てゲームとして売り出しているのはデザイナーだけなのだから。
こんな新しい演出がありますよ、といった枝葉末節ではなく、この根本の部分を固めるべきだと言いたい。
根本的に単に遊びであるから楽しい、だからあるのだ、という価値ならば差異化の意味があるだろうか。
人にはよるが仕事だって楽しいものであるから、楽しさは答えにはならない。
RPGに存在価値があるのかという話に行き着くのは目に見えている。
RPGが楽しいからという結論に行き着くなら、その結論に至った理由が問題なのだ。
人それぞれである、という答えは理由を考える上で容易な逃げ道である。
楽しいものの楽しみは人それぞれであるだろう。
ただし、それを語るときには万人が理解できる説得力を基盤に面白い構造があり、その「どこが」楽しいのか、というのがその逃げ道の正当な大義名分であるとは考えられるのではないか。
楽しさが、趣味嗜好の裏付けがあるのはもちろん理解できる。
RPGが訴える面白さとは何なのかが、明確化されていないのは果たして気のせいだろうか。
不安に感じる。
例えば、として挙げられる楽しみは別にRPGではなくても簡単に置き換えが可能なものではないのかということである。
キャラクターデータ不確定性
普通のシステムの矛盾で象徴的なものとして特に挙げられる点を考えてみよう。
とりあえずキャラクターのデータを細分化を肥大の弊害がないものとして考えてみる。
いくらキャラデータを細かくしても、一部分、一部分の和は現実と一致しないために誤差が生じることに不思議を感じたことはないだろうか。
Aという行為を行う力は低くとも、BやCの力を合わせることによって、Aという行為を行うどころかAという行為の結果を越える達成ができるという事が起こりうる。
それが全く同じ行為であっても、時としては起こるのである。
例として、弓矢を放つのに弓弦を弾く筋力、上手に矢をつがえる器用、目標を捕らえる知覚、タイミングを計る敏捷、相手の移動速度から未来位置を予想する知性のなどのうち、知覚だけで良いのか、筋力と敏捷を平均して扱うのか、といったものがそれである。
時には同じ行動をとった異なるキャラクターがプレイヤーやマスター次第でこの現象が起きたり、交替で同じキャラクターを使用しているのにこの現象が現れて大きく異なったりする。
この不確定性を承知してデザインされ、プレイされて行くべきであることはもちろん明白である。
この不確定性は解決策の方がどうやら害がありそうだというのが普通の認識である。
逆手にとれば、同じ目的を達成するのにも過程の変異(ヴァリアント)を生じさせるのに利用できよう。
しかしそれはマスターの指揮下での操作としての話である。
RPGの楽しさとして挙げられたものが他にあげられたものと一緒になってもRPGの楽しさを語り尽くせないのはこれと同じだというのが、楽しみの内訳を回答拒否する理由なのかもしれない。
もしかしたらあのパラドクス問題もこの次元の話かもしれない。
そんなに我々は難しい調和した楽しみをコミュニケーションという場で与え合ったり、受け取り合ったりしてるのだろうか。
RPGの魅力の変動性および超越性
RPGはユーザーごとに、またはデザイナーごとに異なる魅力を持つ。視点を変えれば、これは悪くはないどころか、素晴らしいことではないか。
悪い点はそれが他の人に伝えられないからである。それを肯定してはじめて、「RPGの素晴らしさ」が語られるというのだろうか。
しかし、多人数でプレイする時、異なる魅力を求め合うことから不協和音が生じるのは否めない。
これはRPGの魅力を失わすに足る充分な理由でさえある。
マスターなどの一方がパワーで押し切るのではなく、互いの感じる魅力の共通の部分を見付け、それを基にすり合わせて新しい魅力を築き上げていくことこそ、理想的克服の仕方である。
このとき、妥協しあい、一致するということが大切なことだったりする。
コンベンションはもちろん、普段の仲間内のプレイにしても同じ事である。
コミュニケーションで成り立つRPGに他者と適合しない自分の嗜好の固定した魅力を求めることは失礼に当たる。
例えば、戦争などの殺戮の嫌いな人間がいるとする。
戦争映画を見て心の底にわずかにでさえそこに『人間』が見付けられず、ヒステリックにこの存在を否定しようとする行動に出たりするような人間はRPGには向かない。
自分の好き嫌いによって動く人間は確かに『人間らしい』し、またそれが全くないというのは人間ではない。
しかし、ゲームなのだからと、ある程度自分を越えた所から自分を見るような態度がそれ自体の魅力の創造を求めるRPGには必要なのである。
この相手と自分の利害をいわば一歩引いて見る視点こそ、多くのRPG入門書が主張する協調とやらの誤解の少ない秘訣であると思う。
感情移入の無意味性
RPGはプレイヤーのキャラクターへの感情移入が魅力であるという考えもある。
ならばプレイヤーがキャラクターを同一視することを病的なまでにやり続ければ面白いはずである。
人に迷惑を掛けなければそれはそれで良い。
しかしこれはずいぶんと幼稚なまでに徹底した主観的な自己愛者の答えではないか。
RPGがコミュニケーションという他者との交わりで成り立っているという核心を、自分の楽しいと感じる理由で完全にすげ替える惨めな結論である。
確かに感情移入であるという指摘は正しい。
しかしそれだけならゲームよりも面白い、他者の介入しない感情移入を求めればいいだろう。
ゲームに限るならRPGになかなか無い要素、勝敗、技術の向上、スリル、現実からの逃避、時間潰しなどを徹底しているものをやれば良い。
個人的意見なら感情移入なんてしないで素直に人生を楽しむほうがいいよと助言したい。
自分の身代わりに冒険する人物の気分なんて、気の小さい救いようのない人間くらいしか求めないだろう。
精神分析学による正確な定義では希ではあるが感情移入という言葉を投影性同一視の一例とする場合があるとのことである。
普通、感情移入には自己の客観視があるものだという。
はたから見て恥ずかしくなるような感情移入をする人間のいかに多いことか。
RPGのプレイヤーのキャラクターなどというものは決して別の人格ではない。
脚本がない以上、本人のままである。
別の人格であると主張するのは単に人格的に現実適応を発達させていないだけである。
いわゆる「なりきれる」と呼ばれるスタイルが無条件に賞賛されるから、話がおかしくなる。
キャラクターがプレイヤーでないなら遊ぶ楽しみはどこにあるのか。
われわれはプレイヤーのとき役割のプレイ、演技を楽しむだけである。
即興演劇が楽しいのはそこに美的感覚、エンターテインメントとして楽しませたいという意図があるからである。
嘘をつくなどの即興演技が行われるのは、真実を隠すためである。
我々のロールプレイは単に感情移入などという悪趣味な目的で行われるのか。
病的ではないか心配になる。
RPGとコミュニケーション
遊びというものは全て楽しい時間を作るという目的を持つものである。それに最も近付くものがRPGである。
勝敗はないし、想像力は、やりこんでもほとんど向上しないから技術の向上とも無縁、怪我をしないからスリルもない、相互コミュニケーションだから現実からの逃避ではないし、労力が掛かるから時間潰しとも言えない。
そういったものが主体となるものとは異なる所に、RPGはある。
なぜなら、コミュニケーションが楽しい時間を作る最も純粋な形であり、そこに勝負を持ち込まずともゲームとして社会的な地位や家柄、人間関係の継続性とも無関係に、同じ土俵でチームワークをつくり、想像力の発揮を賞賛しあい観賞しあうスタイルだからである。
それらを目的としてプレイすることも有り得ないわけではないが、それだけを求めてプレイする人をほとんど見掛けないという事実を見ればそれがRPGの魅力を生む面白さの構造ではないことは明らかだ。
しかし、裏を返せば無意味な行為とも映る。
それでもプレイするのは、ただ楽しいのではなく、RPGの性格が意思疎通のための表現の上手い下手をほとんど問わないコミュニケーションの場としてあることによるものだ、と補うこともできる。
プレイヤーにしろマスターにしろ表現力が乏しくても会話体なので想像力の内容自体が評価される。
とにかく、まず、これを前提にしたところから、RPG本来の面白さの構造が成り立つのである。
RPGが無意味な行為に成り得ないのは、このコミュニケーションの場としての役割があるからにすぎないのだ。
RPGの面白さの構造とはゲームとしてのコミュニケーションでプレイされることで、それが展開となってストーリーが共同作業で生まれるものだということだ。
その作業への参加資格がマスターという環境整備係とプレイヤーというキャラクター役係という分担の協力姿勢である。
プレイヤーはキャラクターを演技することで、マスターはそれ以外の演出操作によって、ドラマを求めながら単にゲーム展開ではない、ストーリーを共感しながら創作して行く。
そのストーリーは、その造り手たちが観客で、楽しむためのものであり、それ以外はRPGではない。
RPGの観客は造り手たち自身である。
マスターもプレイヤーも、同じストーリーの造り手であり、どちらのだれかだけの作品ではないのだ、ということである。
RPGはこれ以上ではないし、これ以下でもない。
ここに当てはまらないものは単なるRPGもどきである。
この当然の視点からのアプローチでRPGのシステムへの考察を行う。
ヒーローポイントとストーリー性
萌芽したストーリープレイと時代遅れの観があるシミュレーションプレイの調和を目指すヒーローポイントの制度において、キャラクターの捉え方が単に『行動を為す』展開を生む存在から、『ストーリーを紡ぎ出す』存在へとまた大きく変質したのは前進なのかどうか。
これは言い換えれば『自由度と認識統一のパラドクス問題』の一部分の解決を図ったものであると言えよう。
原初のスタイルに毛の生えた状態であることに不思議さは感じる。
付け加えるとシミュレーションプレイは死んだのではなく、シビアなストーリープレイとして健在である。
ヒーローポイントによってゲームバランス維持の依存先がゲームマスターの手から本来のシステムへ一部、取り戻されたのである。
プレイヤーのキャラクターがストーリーの中に地位を確立し、プレイヤーはキャラクターのストーリー上の可能性としての存在であることをより強く実感できた。
またヒーローポイントの行使はストーリーの流れにおいてどれだけの価値を持っているかによって判断される。
ヒーローポイントはRPGをストーリーゲームへと一歩近づけたのである。
しかし、その目的は完全に達成されたとは言えまい。
ますますゲームバランスが避けることのできない混乱に陥り、セッションがストーリーから脱落しやすい状況になったとも言えよう。
ストーリーの種類を熱血物などと限定するのを見れば理解できる。
進化ではなく単に変質であることが分かる。
ヒーローポイントがもたらしたのはそれらの問題ばかりではない。
『自由度と認識統一のパラドクス問題』に関する再考察を促すこともまた読み取れるのである。
ヒーローポイント制度の導入によってシビアな話に限らなくなってストーリーの自由は大幅に広がった。
認識統一の問題についてはストーリーの流れを限定することで、キャラクターの能力的な可能性についてのみ、解決を図ることができた。
なおざりのシステムの肥大化の問題については解決は行われていないが、一つの手掛かりを示した。
それはストーリーゲームのRPGでは、ストーリーの自由を生かしつつあくまでその流れの把握において、物語を主導する権利、つまりヒーローポイントを行使するための情況把握の判断が求められるという事がゲーム性になるということである。
ストーリープレイのシナリオの位置
ソフトウェアであるシナリオの進歩が、ハードであるルールシステムの発展を牽引してきた。
シナリオもまたRPGのシステムである。
ルールシステムはシナリオというソフトを組み込まれていない演出の処理装置と考えられる。
RPGシステムとはストーリーを共感しながら創作するときの単なる演出の装置である。
シナリオとは何か。
それは単なる演出の装置ではない。
ストーリーではなく、ドラマを描くための秩序、つまり一連の演出の手順にそった意図されたものである。
演出が時間によって構築される仕組みなので、ストーリーはセッションでプレイされてアドリブで初めて生じ、そのときにシナリオが関わる。
これがゲームであるRPGの性質である。
シナリオはストーリーの進展のための単なる脚本ではない。
ドラマを描く道筋、方向付けなのだ。
シナリオとは状況の準備で形成され、全体で展開演出の計画的指針を構成する。
シナリオでは予想が含まれるが、予想通りと物語の予定調和とは違う。
状況は展開の今後への狙いという目的が基盤として記述される。
まず関係があり、セッションでのプレイとともに関係はどう変化し、それがストーリー上のドラマ演出として、どうあれ、解釈され得るものとする。
そのプレイヤーへのマスターからの具体的提案がシナリオである。
解釈はプレイヤーとマスターが行う。
マスターがシナリオを書くと言うことは、マスターのマスタリングの意図の明確化である。
誰々に対するゲームであるのかを明らかにするのがセッションであり、シナリオはどんな誰々に対するのかを念頭に置くことで制作される環境位置の相違にすぎない。
システムは物語の文法のガイドのようなもので、誰々と対象を限定しない遊びの万人共通の部分の抽象である。
シミュレーションプレイのように戦闘を描くとして意図を限定するのか、ドラマを作りたいという意図なのか、どちらなのかをシナリオで明確にしたときに、ストーリープレイが生まれるのである。
ストーリープレイでのシナリオの位置付けは今の所この意味でしかない。